クラシコムの運営するコーポレートメディア(オウンドメディア?)のクラシコムジャーナルに掲載されていた、元WIRED編集長 若林恵さんと、クラシコムの青木さんの対談が印象に残りすぎる言葉だったので、メモとして印象に残った言葉を残していくスタイルを試してみる。
書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 前編
読んでおきたい、これからの話。WIRED元編集長・若林恵さんが語るメディアの行方
ものを作る時には主観でしかない
相手のことを考える、読み手、受け手のことを考えるって大事というのが当たり前のような感覚あったけど、そうじゃなくて、やっぱり自分の主観で押し通すしかないんだな。
若林
僕はお客さんってあんまり興味ないんです。「作りたいもの」と「読みたいもの」があったとして、お客さんの「読みたいもの」って客観的には明らかにならないものだと思うから。あくまでも作ってる側の主観的な想像でしかないわけで。自分が書いている言葉の中に読み手がいる感じなんですね。もうちょっと広い言葉でいうと「社会と対話する」みたいなことで、自分も当然にその社会にはインクルードされている。当然「社会」には主観も含まれていて、だからこそ文章ってのは、主観と客観とが入れ子構造みたいなかたちでお互いを包合しあってるようなものとしてあって、それは分離不可能なものとして存在してるんです。
クラシコムでは、「自分が読みたいものを書いてほしい」
下記の姿勢で書いてほしくはない
- 「書きたいものを書く」
- 「みんなが読みたいであろうものを書く」
「北欧、暮らしの道具店」はもともとお店のユーザーを中心にスタッフを採用しているのもあって、自分が読みたいものだったら、求める人は絶対にゼロではないだろうと。でも「みんなが」としてしまうと、それはゼロかもしれないわけです。これも若林さんがおっしゃったこととの関係が深い気がしますね。
ブリコラージュできる編集者が世にもっと出るべき
ブリコラージュという言葉は初めて知った。
青木
今後は「ブリコラージュできる人の活かし方」が大きなテーマになるはずです。加えて言うなら、そういった人がスキルを向上させると、センスが壊れてしまうという逆相関の関係もあるのではと考えています。
これは分かる。
センスって「好き嫌いにおける一貫性のある文脈」
一貫性がセンスというのは非常に分かる。
好き嫌いではなく、何が面白いかを話す
これもいい。
「自分にとっては面白いと思うけど、他の人には・・」って何の魅力も伝えなくて、その人なりの解釈で魅力を伝えてもらったら、気になる部分ある。
若林
うんうん。たとえば、新しい映画が始まったときに編集部員と雑談するようなときに、「ぼくは好きでした」っていうようなコメントを禁止にしてたんですよ。お前の好き嫌いなんてどうでもいいし、絶対に言わなくていいから、「何が面白いのかを話せ」と。
嫌いを否定しない
嫌いも一貫性が大事。
そして、メディアの成り立ちでもあるのか。
青木
僕は嫌いなものがすごく多いんで、嫌いなことをやらないとすると、やれることがほぼ一択とかになっちゃうんですよ。青木
僕はこの子供じみて聞こえる感覚を全肯定することからしか、コミュニケーションや対話って生まれないとも思っていて。「嫌い」をお互いに肯定しながら、あり得る選択肢を探そうというのが対話なんじゃないかと。若林
ほんとですね。考えてみればメディアの個性ってのは、「なにが嫌いか」っていう軸をめぐって立ってるもののかもしれないですね。僕がオウンドメディアに感じる問題のひとつはそれで、「嫌い」をメッセージとして発せられないからなんだと思います。
期待値を高めるビジネス
刈り取るって言葉が大嫌いです。
若林
そもそもコンテンツを作るビジネスって結果を自分の手で刈り取ることが不可能なものだって思ってるんですよ。若林
メディアの記事って別に目的もゴールもないんですよ。ただ僕らは「面白くない?」って見せて、「すげぇ面白い」と答える人たちがいるだけで。しかもその「面白い」は、願わくばその人に違う価値観をもたらすとか、ものの見方がより豊かになって生き方が変わるとか……そういうものであって欲しいわけですが、それってただひたすら読者の中で起こることなので、僕らには関与できないんですよね。
情報はいらない。未来も語るな。必要なのは「希望」である──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 後編
情報はいらない。未来も語るな。必要なのは「希望」である
インプットへの病は世代の問題なのか
これが自分の周りの環境なのか世代なのかなかったので、非常にもったいない時間を過ごしたなと思っている。
哲学書や思想書を経ておらず、こういう場があったとしても引用すらできない自分にはコンプレックスある。
若林
それって、世代的な病気なんですかね? 僕ら世代はインプットが足りないやつは悪だっていう世界観が強かったじゃないですか。青木
おそらく、そうです(笑)。聞いてもわからないアーティストのCDをわかるように一生懸命聞くとか、3ページで眠くなる本を必死に読むみたいな、謎の行動があった。
アウトプットのない情報のインプットは中毒であり、依存症
情報の自家中毒って面白いと思った。
わりと近い症状になっていたかも。
取っているんだけども、「何のために取り、どう使ったらいいのか」がわからない。だから、いくら情報を取っても何のリターンもない。要は自家中毒を起こしてるだけなんですが、それを「情報が足りていないせいだ」と思っちゃってるんですよね。一種の依存症。
「作る」と「消費する」
若林
あと最近は、「情報」と併せて問題かなと思っているのは「消費」についてで。僕の見立てだと、戦後の日本国民は長らく「作る人」という定義だった。とにかく売るものがないからゼロから作らないといけなかったのが、1970年代を超えたあたりから消費社会への転換が起きていった。消費することが先にあって、それを追っかける形でモノが作られるようになるんですね。「作る人」ではなく「消費する人」が優先事項になっていったと。
情報を得て、それを買えば豊かになれるサイクルでまわっているうちはよかったけど、現代みたいに「モノを買ってもそれほど幸せじゃないな」って思いが生まれはじめると、そもそも消費情報を得ることの意味がなくなって、やっぱりこれも自家中毒を起こす。
そんなとき、メディアが載せる情報として、なにを、どこを、だれを、どういう風に、そして人々を何へ向けて動かそうとしているのかが問われるわけです。
未来ではなく、希望
こういうことを言ってみたい。
僕は思想家のイヴァン・イリイチがすごく好きで、彼が晩年に言っていたのが「人びとに『未来』などない。 あるのは『希望』だけだ」。この言葉を当てはめると、未来に囚われ続けてしまうと自分すら投機対象になってしまうってことなんです。
とはいえ、未来ではなく希望という、このパートだけ、まだちゃんと理解できていない。
この発言は理解できる。
青木
若いうちって、希望じゃないものを希望って思っちゃうじゃないですか。我々のように初老を迎えているおじさんたちは、それなりにいろんな希望に騙されてきているから(笑)。
「未来はいいから希望を語れ」を頭のなかに置いておきたい。
若林
最近、僕が割と気に入っているフレーズがあって、「未来はいいから希望を語れ」ってものなんです。投機としての未来じゃなくて、俺はこれに希望を見出したんだという話がもっと共有されないかなと。それこそ、ラッパーのケンドリック・ラマーが人気を集めるのも、彼は若い子らにとって新しい社会を思い描かせてくれる希望だからなんですよね。
あまりにすごいなと思って、いちいちSNSでコメントできない分量だったので、コメント形式でまとめてみる実験。